建築するとは

 「建築とは空間を創造することである。」といわれています。ものを創造する事は創造主である神様の業に参与することであり、私達人間の崇高な業の一つです。
 又建築という人間の行為は、文化を創造する事でもあります。文化を創造する事は人間の大切な努めでもあります。
 聖書は、神によって創造された人は「自分がそこから取り出された土を耕すようになった。」(創世記3:23)と言っています。ここで「耕す」との言葉は英語のカルチャーの語源となっています。すると耕す事と文化を創造することは、深い関係があるといえるでしょう。
 聖書によれば、人は土から創られた(創世記2:7)とあります。しかも、土から創られた人が、土を耕す事(文化を創造する)ということは、人間が自分自身を耕す事だと言い換えることが出来るでしょう。文化を創造し形成する作業は、人間が自分で自分自身を耕す行為でもあるのです。
 例えば、建物を建築する場合、建物を建築するという文化の創造と形成の作業の中で、建築に携わった、一人一人が、それぞれ自分自身を耕され行く行為とならなければなりません。
 そこで、教会堂の建築における神の栄光は、建築された建物それ自身が現すのでしょうか。それとも、むしろ建築に携わる人間、その人自身が耕されて、良い器に整えられていく過程が神の栄光を現すのでしょうか。どうも後者の方ではないかと思うのです。
 すると、聖書に於ける建築とは建てられた建物よりは、建築作業に携わる人々の行為に視点を置くべきではないでしょうか。言い換えると神の栄光は、建築された建物、その「物」でなく、会堂建築に携わる人が神の形に姿を変えられていく(Ⅱコリント3:18)プロセスにこそ求めるべきではないでしょうか。