造ることのへの警告(建築するとはパートⅡ)

アメリカのある神学者はこう言っています。
プロテスタントの思想の中に「眼」を超え、「眼」に対する「耳」の優位がある。
②従って、プロテスタントは、偉大な音楽と偉大な詩を創造した。
③しかし、偉大な建築や絵画や彫刻を創造しなかった。
それは、「眼よりも耳の優位性がその根本にあるからだ」と指摘しています。これはプロテスタントの思想というよりは、むしろイスラエルの思想というべきでしょう。
 最近、日本の教会建築も目の方向性へ関心がでてきました。これはこれで感謝です。しかも、会堂だけでなく、内部の装飾、付帯設備、墓地、墓石等にも神学的な考察と実験が始まっています。これはすばらし事です。
しかし、人間が造ることに内在する人間の本質的問題があることを決して忘れてはならないと思います。
 聖書にでてくる最初の大きな建造物はノアの箱舟でした。旧約聖書創世記の6章に出てきます。次に出てくるのがバベルの塔です。創世記11章に出てきます。2つとも大きな建造物でした。そして、この大きな建造物で主の怒りと裁きの対象になったはバベルの塔の方でした。それ以前に造られたノアの箱船は大きな建造物であったにもかかわらず、神の怒りの対象とはなりませんでした。むしろ、神の栄光が讃えられたものとなりました。それは、神の救いのための建造物となったからです。

 何故バベルの塔は神の怒りによって、破壊されていったのでしょうか。建造物の種類や形がいけなかったのでしょうか。高すぎたから、大きすぎたからだめだったのでしょうか。
 「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名を上げようと旧約聖書創世記11章4節に書かれています。 神の怒りに触れた原因の一つは「名をあげよう」という考えのようです。それは、人間の傲慢が表出しているからだと思います。大きな建築物を建設することによって引き起こされた神の怒りと裁きの理由は「人間が自らの名を上げる」ことにありました。人間の意志と知恵と技術を誇ったことが神の怒りの原因となったと考えられます。ですから、神はこの人間の力を自慢をし、人間崇拝、人間賛美がなされる危険性をとどめることにあったようです。しかも、ある特定の人への賛歌や尊崇は、同時に、造れない人、目にみえるものを持てない人を軽蔑することが生起する危険性があったこともいなめないでしょう。これも、又、名をあげようとする人間の心の中に潜む傲慢さのようです。

 神の怒りに触れてしまったもう一つの問題点は同じ節の「散らされるといけない」と考えたことにあったようです。
 神は分散して住むことを必ずしも禁止してはいません。最初に創造された人間に「うめよふえよ地に満ちよ!」と命じられました。空間的な意味で、人が分散すること聖書は否定していません。むしろ、地域に広がることを奨励さえしています。分散して生活しながらも、内的な一体性を保つこと、霊的な交わりと結びつくことは大切なことです。心の分離を防ぐために、霊的な一致と一体性、交わりは、目に見えない神を礼拝することによって可能なことだと聖書は教えています。しかし、目に見える物によって霊的、内的一致を求めたことに問題があったようです。
真の内的霊的一致は同じ神を礼拝することによって作り上げられるものです。それを、塔と言う建築物、すなわち「物」によって一致を保とうとしたようです。これこそ聖書が最大の罪と指摘している偶像礼拝そのものに他なりません。
 本来、散らされて生活することは、神のみこころであったにもかかわらず、それが皮肉にも神の裁きの結果となってしまったのです。
神が聖書の中で祝福として定めてくださったものの多くが、この21世紀の現代、人間が裁きとして経験しなければならなくなっているのはなんと悲しい現実なのでしょう。