マタイ受難曲

4月10日(金)は受難日でした。2000年前のこの日、イエスキリストが十字架にかけられて私たちの罪の身代わりとなって死んだ日でした。
今年は、少し時間に余裕があったので、午後一人静かにバッハのマタイ受難曲を聴くことしました。私はソニーのMP3に、バッハ100選、その他のバッハの曲や、モールアルトCD10枚分を記憶させてあって、その中から受難曲を選んで聞き出しました。ソリストの歌声と合唱を聞きながら受難週に起こった出来事が書かれている聖書の箇所を思い出しながら聞き入っていました。
         
そっと顔をなでて通り過ぎた春風に目を覚ました。どのあたりかは思いだせませんが、眠ってしまったようです。聞こえてくるのはモーツアルトのシンフォニーでした。受難曲は既に終わっていました。
今年の受難日もバッハのマタイ受難曲全曲聴くことができませんでした。今年もだめだったなと一人苦笑いをした時、フト、イエスキリストが十字架につけられる前の日、ゲッセマネの園で血の汗を流されて祈られてイエス様と近くに招き寄せられていた3人の弟子達のことを思い出しました。3人の弟子達はイエス様が血の汗を流されてお祈りをしている最中眠ってしまったのです。
マタイの福音書
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
この時の3人の心境が痛いほどわかるような気がしました。それと同時にイエス様がおっしゃった言葉に言いようのない慰めを感じました。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。

今年の受難日はイエス様の苦しみを味わおうなどと思ったことが、いかにも傲慢な態度だったなということを知らされると同時、3人の弟子達と同じように私の弱さを決して責めなさらないで、静かに受け止めてくださる主イエスキリストの優しさに包まれた受難日の午後でした。