数量化

         
 ウイリヤム・ペテイは1670年「政治算術](岩波文庫)を表し、J・グラントが考察した数量的法則の社会的意味を質的法則の発見にまで深化させた人であると言われています。又1976年「いのちのことば社」で出版した「伝道と教会の自己診断」でバージル・ガーバーは「これらの教会生活の質的要素は、すべて数量的に測ることが出来る。なぜならば、それらはみな人によってなされるものだからである。人は数えられる。」と言っています。しかし、教会の姿、分析や評価、成長等について「数」を用いることの問題点を十分に理解しておく必要があるように思います。いわゆる「質」の数量化の問題点と危険性についてです。
数学について竹内啓は「社会科学における数と量」(UP選書)で「数学は、自然の中に存在する量的な現象、あるいは数量的な関係を認識し、それを抽象化することによってうまれる。一頭の牛、二人の人間、三個の果実等々から、具体的な『もの』を捨象することによって1・2・3・・・という数が成立し」・・・「このようにして成立した数量の概念を科学的認識の方法として用いるために」・・「無限の変化を示す現象の中で本質なものは量の差であり、質の変化や固体の差異は仮のものであるとして、いわば現実を『数量化』して理解しなければならい」と言っています。数学とは、本質的要素を捨て「数」だけを抽象することで成り立ち、又「本質なものは量の差である」とか「質の変化や固体の差異は仮のものである」とする考え方です。ですから「数」を用いると言う事は、既にそして常に、ものの本質や質的要素を「捨て」「量の差とし」「差異を仮のもとし」、質を無意味化する非聖書的で非教会的な方向性が内在している事になります。
             

偏差値教育の問題点は、子供の持っている質を思い切って大胆に捨てて、量によって子供の善し悪し評価してしまったところに、深刻な問題があったわけです。日本の教会でも無批判に教会を数量的に評価する傾向性があるとすれば、偏差値教育等で起きた数量化の問題と同じ問題を教会が抱え込む危険性があり大いに問題が残ります。数学や数量化に内在するこの本質的問題性を知れば知るほど、バージル・ガーバーのように、単純に「人は数えれる」から数えて良いということにはならないでしょう。
エス様が九十九匹を残して、失われた一匹を大切にされた意味と重みを今ここで、もう一度立ち止まり熟考すべき時ではないでしょうか。