浪費する時間

 しばらく前から六十の手習いでインターネットを利用してアメリカの友人と電子メールのやり取りをはじめました。夜、電子メールを送ると、速い時は次の日に返事が届いているといった具合です。アメリカにいる友人が机ごと私の書斎の中に入ってきて、議論しているような錯覚に陥りました。アメリカとの距離感がほとんど感じられず、いわゆる情報化社会の一部分を垣間見せられたような気がして、非常に新鮮な驚きを感じています。
      
情報化社会とは、コンピュータの普及と通信システムの発達により、産業、社会、生活、全般において情報が大量に生産され、流通する社会であり、又、情報が大量に消費され、社会システムの中で情報の占める重要性がいよいよ増していくような社会であると言われています。
しかし、現実に大量に生産され流通し消費される情報の中心は娯楽情報のようで、必ずしも重要性が増しているとはいえません。又、娯楽性の低いニュース情報でも、出来事とその中で生きている人間それ自身を扱いならがら、ニュースそれ自体が一つの商品となり、食料品や消耗品等の一般消費財や自動車や家庭電気器具等の耐久消費財と何等変わるところがなく「物」として毎日消費されているのが現状です。オウム真理教事件阪神淡路大震災、神戸の小学生殺害事件等も、一つの商品としての情報としか見做しえないで、消費してしまったうしろめたさがキリスト者の中にもないでしょうか。どうも、情報化社会とは、人間それ自身が商品として、「物」として売られていく社会であり、人間がいたずらに消費されていく社会のようです。
ある日、祭司とレビ人が強盗事件に出会いました。彼らは半死半生の男を「見」ました。彼らはこの男が全身をもって発信した情報を一旦は受容しましたが、脳裏をかすめただけで、十分な消化には至らず、情報は通り過ぎて消費されただけでした。聖書が「通り過ぎていった」と記しているのは、極めて象徴的です。しかし、同じ情報を受容したサマリヤ人は、立ち止まったのです。そして、十分に消化し、人間に深く関わっていったのです。
大量に生産され流通してくる情報の中から、私達がより良く神の御心に従って生きるために、血となし肉となしていくところの、真の意味での消化としての情報の消費は、十分なされているでしょうか。キリスト者も大量に提供される情報に消化不良を起こし、いたずらに浪費し、ゴミと化し、押しつぶされているように思えて仕方がありません。