計画を立てることの危険性

               
 私が牧会を委ねられている小さな田舎の教会でも、今年度の活動計画を教会会議で決定し、新年度をスタートしました。しかし、教会は計画をたてることの可能性と限界或いは危険性と問題点について、一度整理しておく必要があるように思います。
竹内啓は「社会科学における数と量」(東京大学出版会)の「計画のイデオロギー」の中で「計画的な行動というもの、・・・『神だのみ』や『運まかせ』の態度を捨てて、人間が自分の運の支配者になろうとする、自立の精神を表している。」と言っています。即ち、計画を立てる行為そのものが、神への反逆的行為となるという問題性を含んでいるわけです。又、さらに「計画というのは目的が絶対化され、価値判断の狭い一元化をもたらす。すべての他のことはその目的に対する手段として考えるようにる。計画における最重要要素である人間それ自身が、資源として一定の目的のために利用されるようになる。そして人間の自性、個性を尊重する代わりに、人間を操作すべき対象物としてえることになりやすい」と言っています。これらは私達が陥りすい問題点を指摘していないでしょうか。


例えば「今年の受洗者の目標を10人とする」といった計画が教会総会で決定された場合、この目標達成のために教会では具体的な年間計画を作ります。やがこの計画が絶対化され、一元的な価値判断がなされ、他のことはその目的に対する手段として考え、計画に従って教会員が動員され奉仕が求められる可能性があります。しかも、その人が存在していること自身が神の賜物であるにも関わらず、それ以上に、その人の持っている属性的価値としての賜物だけが尊重され、「賜物を用いる」という美名のもとに、その人自身が手段化され利用されるといった事さえ起こりうるわけです。

では、無計画な生き方で良いのかと言えば、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」(箴言29: 18)という問題が起ってきます。又無計画の裏返しとしての「全てはみこころのままに」と言う人の中に、不真実、不忠実、不敬虔、怠惰、無責任、という非聖書的な生き方が見え隠れしてきます。これもまた逆に大いに危険です。新改訳聖書エペソ人への手紙5章16節には「機会を十分に生かして用いなさい。」とあり、詳訳聖書では「今の時を最大限に活用しなさい」と訳しています。今の時を最大限に活用するために、やはり計画をたてることは必要なことでしょう。ですから、計画を立てながらも、その限界、問題点と危険性を十分に理解しながら「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(ヤコブ4:16)とヤコブが言っているようにありたいものです。