685個・・・?

 685個、これは9月18日現在までに収穫できた教会の庭に植えたイチジクの実の総計です。そしてまだまだ数は増えそうです。

毎朝、9尺(約3メートル)の脚立を使って収穫しますが、最も多い日は一日約50個もありました。脚立に登り、もぎ取ったイチジクを頬張った時、少年の頃を思い出します。しかし、当時のイチジクは種類が違ったのか、実は小さく、甘さも今の樹には遠く及ばないような記憶がうっすらと残っています。
 昨年は約20個位しか収穫できませんでした。昨年と比較して、何がどう変化したのか、決定的なことは言えませんが、一つのことがあります。それは、昨年の暮れ、虫がつき幹に沢山の穴をあけてしまったので、切り落とし、枯れないように切り口に合成樹脂を塗ったことです。この枝の選定が収穫量を格段に押し上げた理由なのかもしれません。


新約聖書の中にイエスキリストがこんなことを語ったと記されています。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ福音書15章1、2節)
また、こうも語っています。
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ福音書15章4節) 
 人が生涯において実を結ぶためには、父なる神による剪定が求められているようです。
もし、剪定が必要ならば、私たちは何を神から剪定されなければならないのでしょうか。
 又、実を結ぶためには、「わたし」であり、「ぶどうの幹」である、イエスキリストにつながっていなければならないようです。
もし、つながる必要があるのならば、それはいったいどのような生活を意味しているのでしょうか。どうも、信仰と密接に拘わっているようです。