クレージー・アワーズ

 光陰矢の如し」とは良く言ったものです。年を重ねた今、しみじみ時の経つのがいかに速いかを重く受け止めています 数ヶ月前のこと、テレビ朝日の番組「スパーモーニング」で時計作りの天才的職人フランク・ミューラーのことを取り上げていました。2003年に彼が発表した腕時計に「クレージーアワーズ」と命名された時計があります。文字盤の配列が5時間毎に表示されています。普通の時計の1時のところには1の数字がおかれています。そこから5時間毎に数字を並べ、2時は「6」、3時は「11」と記されています。
ですから、2時丁度になりますと、短針(時針)は1時のところから一気に普通の時計の6時のところに移動します。長針(分針)は普通の時計と同じ位置につねにありますので、12時のところ位置するということになります。本当にクレージーな時計です。この時計は何にも縛られない、自由闊達な時の概念を意図しているようです。「時とは何か」「何でなければならないのか」「時とどう向き合うべきなのか」そんな哲学的視点から時計を作っている人がいることを知り、あらためて「時」や時計について考えなおすきっかけを与えられました。
旧約聖書伝道者の書3章1節2節にはこのように記されています。                                    「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。/ 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。」それに続いて11節で「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。・・・・しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」とあります。
 「美しい」とは「最も良い」とか「最善」と言う意味が含まれています。ですから神様が何かをする「時」も、何もしないでいる「時」も、常に最善なのです。又それは美しいのです。しかも、新約聖書ペテロ第二の手紙3章8節には「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」ともあります。即ち、神様は「時」を超越し、支配しておられるお方でもあるというのです。
もし、神様が「時」を超越し、支配しておられると同時に、すべての「時」が最善であり「美しい」のなら、「時」の経過が早く感じようと、遅く感じようと、どうでも良いことではないでしょうか。むしろ、私たちが「時」を支配しておられる神の最善に全てを委ね、真の意味で「時」の呪縛から解放され自由になるならば、もっともっと人生は豊かで光り輝くものとなるのではないでしょうか。