今は恵みの時、今は救いの日

  先日、77年の生涯を閉じ、天国へ帰っていかれた方の葬儀をキリスト教式で行いました。告別の説教を準備するために、遺族の方々から色々とお聞きしました。この方は子供頃から病気がちで通院や入退院を繰り返した人生であったとも言えるよう生活だったようです。しかし、息を引き取る5時間前のこと、二人の娘さんから「イエス・キリストを信じて天国へ行こう」と勧められ、イエスキリストを救い主と信じ天国へ帰っていかれました。














 


新約聖書には、この方と同じような経験をした人物の話がルカの福音書23章に記されています。イエス・キリストに対する徹夜の裁判が終わり、死刑の判決がくだっり、ゴルゴダという丘の上で十字架につけられた時、イエス様はそれまでの長い沈黙を破って「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(34節)と叫ばれました。
 彼らとはいったい誰だったのでしょうか。著者のルカは十字架の前に4種類の人々がいたことを記しています。
第一番の人々は、「彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」(34節)とありますように、ローマの兵隊達で、死刑囚の着物に心が捉えられていました。言ってみれば、所有欲に支配され、自分の利益にしか感心を示さない人々と言い換えることができるでしょう。
第二番目の人々は「民衆はそばに立って眺めていた」(35節)とありますように、興味本位で無責任な民衆達のことです。彼らは、「面白いこと、楽しいこと、ばかばかしいこと、珍しいこと、」だけに興味と感心をよせる大変無責任な人々で、今日のテレビの芸能ニュースやお笑いやバラエティー番組を好んでみる人々といっても良いでしょう。
第三番の人々は「指導者達もあざ笑っていた」(35節)とありますように、自分の知り得た知識や、理解、そして経験を絶対とする人々でした。イエス・キリストがいっくら間違っていると指摘しても、その間違いを改めようとはしませんでした。
そして、最後の人々は、一緒に十字架につけられた二人の強盗達でした。イエス・キリストはこれらの4種類の人々の罪を赦して下さいと祈られたのです。
大変興味深いことにこれら4種類の人々の中でたった一人がイエス様の祈りの意味を理解する事ができ、救われました。39節に「十字架にかけられていた犯罪人の一人はイエスに悪口を言い」とあります。しかし、別の福音書を見ますと。最初は二人ともイエス様をののしっていたとあります。ところが、強盗の一人は「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」(41節)と十字架の上ではっきり自分の罪を認めています。さらに「おまえは神をも恐れないのか。」ともう一人を「たしなめ」ています。ですから、一人は十字架の痛みと苦しさの状況の中で、さらには死を目の当たりにして、自分の罪に気がつき、それを認め悔い改めたと考えられます。その証拠に「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と頼んでいます。これはあきらかに、死後に置ける神様による罪の裁きを恐れ、どうにかしてイエス様に救ってもらいたい。天国へ連れて行ったもらいたい。そういう気持ちの現われと見ることができるでしょう。普通ならば「私を救ってください」と願うのが一般的でしょう。しかし、彼はただ「思い出してください」とだけ頼んだのです。こんな言い方は、正直で素直でそしてへりくだった謙遜心でなければいえないのではないでしょうか。これこそ、自分の罪を悔い改めることなしにはありえないと思えるからです。

エスキリストは彼の心の変化をしっかりと見て、十分すぎるほど理解をしています。その確かさは「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)とお答えになったことで解ります。この意味するところは「あなたは息を引き取ると、その瞬間、私と一緒にパライダス即ち天国いますよ」というものだったからです。
エスキリストが十字架につけられて息を引き取るまでの約5時間かかって強盗は救われました。77歳で息を引き取った方は、イエスキリストを救い主と信じて5時間後に天国へ帰っていかれました。二人とも人生が終わるギリギリのところで救われたのです。人が神の救いを受け取るのに遅すぎるということは決してありません。
「『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6章2節)