明日という飛び石

聖書の言葉は今更ながら時々ハットさせられることがありますね。
新約聖書の最後の書物にヨハネの黙示録というのがあります。紀元約100年頃に書かれたものです。その書物に「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(ヨハネの黙示録3章15節16節)と記されています。これは人間の精神的心理的側面、そして意志と行為における優柔不断な態度を見事に言い表し、そのような人間に対する神の対応が書かれていて、決断の出来ない人。物事の善悪に鈍感な人。意志薄弱なため付和雷同する人。言行不一致な人。臆病な人。なまぬるい態度とる人の問題点を指摘しています。
 新約聖書の時代にユダヤの国にヘロデ・アンテパスという王がいました。彼は自分の腹違いの兄弟であるヘロデ・ピリポの奥さんであるへロデヤと結婚をしてしまいました。それを知った、神が遣わされた預言者であるバプテスマのヨハネは王に対して「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」とその姦淫罪を糾弾しました。又、王が行った悪事の全てを断罪したのです。怒った王は預言者ヨハネを牢に閉じこめてしまいました。しかし、ヘロデ王預言者ヨハネが正しい聖なる人と知って、ヨハネを恐れ、保護をくわえ、時々ヨハネを牢から出しては、神様の教えを聞き、非常に当惑しながらも喜んで耳を傾けるような生活をしていたのです。
 ところが王の誕生日にヘロデヤの娘がお祝いに踊ったのを見ていて、「お前のために何でも欲しいものをあげよう。」と約束をしました。すると彼女は、ヨハネの首がほしいと願いでました。そこで、王はそれを聞き入れ、とうとう預言者ヨハネの首をはねて殺してしまったのです。王は優柔不断な生活を続けていたために取り返しのつかに事になってしまったのです。
私達も時々、「まだ先があるから。小さい事だから。誰にも知られていないから。」ということを理由に「しなければならない事をしなかったり、してはならないことをやり続けたり」していないでしょうか。優柔不断の生活態度を取り続けていないでしょうか。私達は、明日という飛び石がその人の死につながっていることを決して忘れてはなりません。私達も取り返しのつかない結果にならない前に、勇気を出して「NO!」と決断し、行動を起こしましょう。
 信仰も同じです。「年をとってから入ればいい。」とか、「まだ明日があるからいい。」とか考えないで、思い立ったら吉日です。教会を訪問してみてはいかがでしょうか