敬老の日に

 最近よく「シカト」するという言葉を耳にするようになりました。変な言葉だと思いましたが、念のため調べてみました。何と語源は日本の花札からきていることがわかりました。花札の中に10月の絵柄「シカの十(しかのとお)が略された言葉だそうです。その絵札をみると鹿が後ろを向いています。後ろを見ていて、そっぽを向き、知らん顔をしているように見えます。そこから人を無視することを「シカトする」と言うようになったそうです。しかし、さらに「警察隠語類集」によれば「しかとう」とは、とぼけることで、賭博師の隠語だったそうです。その後、不良少年達の間で使われ「しかとう」から「シカト」に変化し、現在では一般の若者達に使われようになってきました。
この言葉を知っているか、否かは別にして、他の人から無視された経験のある方は大勢いらっしるのではないでしょうか。そして、深く心に傷を受けると共に、人に対する信頼を失ってしまった方々も大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
旧約聖書詩篇という書物の71篇9節に「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」と記されています。これは人が神に向かって、若い時からづーと、そして年をとっても、みはなさないでくださいという祈りです。しかし、それだけではないように思います。私達は、他の人から見放され、見捨てられることがあります。私も自分の中では見捨てられてしまったのではないか思った大変悲しい経験をもっています。小学校の低学年の時です。朝起きましたら母と直ぐ上の姉がいないのです。一番上の姉にききましたら、用事があって東京に行ったというのです。その時、私は見捨てられたと感じました。大人になった今では、その時母に見捨てられたのではないことを納得していますし、その時に受けた心に傷は癒されていますが、傷跡という感情が残っているようです。今でもその時のことを思い出しますとなにか嫌な気持ちになります。
 詩篇の記者は、人は人を見捨て、見放すものですから、神様だけは決して私を見放さないでください。見捨てないで下さい。「シカト」しないで下さい。と懇願したようです。
 この願いは年をとればとるほど、大きく膨れ上がってくるようです。老人の悲しみと恐怖を感じる多くの部分は、他の人から見放され、見捨てられることのようです。人が年をとるということは、他の人から見放されるものだとするならば、他の人から見放されることに耐える訓練を若い時からしておく必要があるのではないでしょうか。わたしもしらがが大変増えました。そこで、今人から忘れられることを訓練しはじめました。この訓練は天国へ着くための最後の訓練の一つだと思っています。しかし、自分で決めたからといって、理想的に人から忘れられる悲しみと恐怖を克服できるとは到底考えられません。私自身限界があると考えています。しかし、私には希望があります。この限界を超えさせて下さる、世界でたった一人の方がおります。それが神様です。
 神様は同じ旧約聖書イザヤ書46章4節で「あなたがたが年をとっても、 わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と約束してくださっているのです。
神様はあなたがしらがになっても、決してあなたを見放さず、見捨てないで、背負ってくださり、天国まで運んでくださり、救ってくださるお方です。だから、年を取られた方々は天国へ帰る時が近づきつつあることを認めつつ、忘れられる訓練を怠らず、しかしながら、その限界を知っておられる神様が、あなたを見放さず、見捨てず、天国まで背負って運んでくださることに信頼をしながら、残された人生を歩もうではありませんか。